Kが生まれた日

 今日はKの誕生日です。
 空の上から「おめでとう」を言ってやってくださいね。
 4月1日に生まれた彼女には、いろいろと不利なことがありました。まず、学校ではその学年の最後に生まれた生徒になることです。はじめ私はそれを知らず、産院で同室した人に聞いて知りました。先頭の子だと思っていたのです。したがって前年の4月2日生まれの人とは一年もの差があるのに同じ学年になるのです。これは大変、私よりも、この子はこの先、大変だと思ったものです。なぜ4月1日生まれが最後の子に定めてあるのかは今もって解りません。
 案の定、Kには厳しい人生のスタートでした。3580gで生まれた彼女は、まるまる太った可愛い赤ん坊でした。集団生活が始まるまでは何の苦労もなく、大らかに伸び伸びと育ちました。あなたの両親にとっては初孫ですから、それはもう、目の中に入れても痛くないといった可愛がりようでしたね。しかし私が仕事を始めたため保育園へ入所させた頃から、あの子の試練が訪れました。
 生来の気質もあったのでしょうが、あの子はとにかく“のんびり屋さん”でした。歩くのも、ごはんを食べるのも、おもちゃを片づけるのも、すべてがスロウな子でした。集団生活ではそれが不都合なことが多く、当人はともかく、親としては園生活からこぼれないかとハラハラして見守っていました。性格も引っ込み思案でしたから、よけいに心配だったのです。

 小学校へ入学後、ほかの子どもたちより頼りなく幼いという面は、もっと顕著になりました。1年生の時、参観日に教室へ行くと、あの子はニコニコして私の方を振り返ります。何度も何度もそうするのです。先生のお話が聞けているのかしらと思ってヒヤヒヤして見ていますと、こんどは体を横へ向けて両足を通路側へそろえ、振り返りやすい態勢になって相変らずニコニコしてこちらを見るのです。あの子だけ、真横を向いて座っているのです。
 図工の参観の時にも驚きました。みんな着席して絵を描いているのに、あの子だけが立って描いているのです。その日は妙に真剣で、頬を真っ赤にして描いていました。机の上の画用紙は斜めになっているけれど…。しかしその絵は堺市の展覧会で金賞をもらい、表彰されました。百舌鳥八幡のお祭り、「ふとん太鼓」を描いたのですが、躍動感が出ていると評価されました。それは立って描いたこと、画用紙が歪んで置かれたまま描いたことによって生じたものだとあなた特有の皮肉を言いましたね。でも我が子の初めての快挙に、私たちは大喜びをしましたね。あなたの笑顔は忘れません。

 Kが生まれた日、入社式と研修のためあなたは東京に行っていました。私は生まれる少し前から実家に帰っていましたが、東京へ発つ前の夜、あなたがやってきて私の父に言いました。「何かあれば、すぐに知らせてください。そんなことになれば会社なんか、就職なんか、どうでもいいです。飛んで帰ってきますから」と。大きなおなかでその言葉を聞き、私はとても嬉しかったです。あなたがくれた嬉しい言葉は、心のポケットに大切にしまっていて、ぜんぶ覚えているのですよ。
 あの日、私は母になりました。それまでの四年間、私たちには何度も危機が訪れました。それらを払拭してくれるようなKの誕生に、私は心から幸せを感じたものでした。研修を終え、あなたが東京から真っすぐ病院へ駆けつけたのは生後何日めだったのでしょうか。夜だったので、当直の看護師さんに乳児室へ案内してもらったそうですね。名前を告げないのに「○○ちゃんのお父さんですね」と姓に“ちゃん”をつけて言われたと、あなたは照れ笑いをしていました。(だってまだKには名前がついていませんでした。)それくらいKはあなたに似ているのですものね。特に大きすぎる瞳は、あなた譲りです。

 思えば私たちの縁を決定的に繋いだのはKですね。好きだとか嫌いだとか、恋だとか愛だとか、そんなことよりこの命を育まなければと、それしか頭になくて私たちは式を挙げました。Kを授かっていなければ、私たちの関係は風前の灯でした。別れていたかもしれません。あの子は私たちの鎹(かすがい)になりました。
 2002年にあなたの悪行が発覚した時にも、いちばん力になってくれたのはKでした。仕事柄(精神科勤務の作業療法士)、彼女は私の精神対話士のような存在になってくれました。あなたが逝ったあと、かたときもKは私のそばを離れませんでした。まるひと月もあの子は私のそばに寄りそい、私の悔いや嘆きに耳を傾けてくれました。そして自らも父親を亡くした悲しみを口にしました。あの子の悔いとは、あなたに孫を抱かせてやることができなかったことのようです。悪行発覚後のこの2年間、父の日や彼の誕生日に何もしてあげなかったことも悔やんでいました。それはしかたのないことだったと私は慰めました。
 こんなふうに、あなたと私の縁(えにし)を繋ぎとめたKは、永訣のときにも重要な働きをしてくれました。Hはインドへ行っていましたし、そばにKがいなければ、私はどうなっていたことでしょう。「お母さんを頼むぞ」とあなたは口癖のようにあの子に言っていたそうですね。近い将来こうなることを、あなたは解かっていたのでしょうか。

 Kが生まれたのも今日のように暖い春の日でした。あの春、産院の部屋の窓から若い桜の木が見えていました。町なかの民家と民家の間から、まだ若くて細い木が真っすぐに伸びていました。その木を見ながら、あなたが東京から帰ってくるのを待っていました。あれから30年が過ぎました。さぞかしあの桜は立派になっているだろうと考えることがあります。
「今日、わたしの誕生日やねん」
「うそや。だって今日エイプリル・フールやで」
 小学生のときよくそう言われていたあの子は、今でも人にそう言われることがあるのかどうか、こんど聞いてみたいと思います。

2005年4月1日

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