「思い出のバラ」

 五月になると思い出すことがあります。それは「思い出のバラ」のことです。
 学生だった私たちは、あるとき三宮で待ち合わせをしました。その場所は「井戸のある家」という喫茶店でした。阪急三宮駅の山側にできた新しい店のようでした。それぞれ何を飲んでいたかは忘れましたが、たいてい私はコーヒーで、あなたはコーラ、クリームソーダー、ミックスジュースなど甘いものでした。
 店内は平日の昼下がりだったせいか、ほとんど客はおらず店の中は空いていました。その店の名前が珍しくて入ってしまったと思いますが、席につくと、まず私は“井戸”がどこにあるのかと探しました。あまりキョロキョロするのもみっともないことなので、どれが“井戸”らしきものなのかよく判らないまま探すのをやめました。30年以上も前のことですが、今だに井戸またはそれらしいものはどこにあったのかと気になりますよ。
 それはさておいて本題に戻ります。その日も気楽な学生にありがちな、たわいのない話をしていましたが、ふとBGMに耳を奪われてしまいました。それは日本語で歌われている曲でした。“忘れないで忘れないで 時は流れ過ぎても”というサビの部分が特に印象的で、思わず聴き入ってしまったのでした。あなたの話はそっちのけで、私はその曲に耳を傾けてしまいました。
 数日後、どうしてもあの曲が忘れられず、あれは何という曲か店に行って尋ねてきてとあなたに頼みました。「いいよ」とすぐにあなたは引き受けてくれました。そんなことを尋ねに行くのは年頃の女のコとしては恥ずかしかったのでしょう。何でもマメなあなたに頼んだのでした。すぐに行動を開始し、なんとあなたはレコードまでも買ってきてくれたのでした。その曲名は「思い出のバラ」といい、ブレンダ・リーが日本語でカバーしたものでした。私はとってもうれしくて跳び上がりました。そうか、あの声はブレンダ・リーだったんだと感激しました。ミス・ダイナマイトと呼ばれた彼女の歌は迫力があり、カントリーミュージックからスタンダードまで、私は大好きでした。
「で、どうやって教えてもらったの?」
「歌ったよ」とあなたは答えました。サビの部分を歌い、お店に人に聴いてもらって曲名を教えてもらうことができたというのです。私は吹き出してしまいました。どんな顔をしてあなたは歌ったのだろうと思うと、おかしくてたまりませんでした。
 あのシングルレコードは、ずいぶん長いこと聴いていませんが、今でも大切にしまってあります。五月になるとあの曲をかならず思い出して口ずさんでいましたが、あなたはサビの部分から勝手に割り込んで一緒に歌い始めます。しかも間違った歌詞で気持ちよく歌ってくれました。あそこは“しのび泣いて”ではなく“むせび泣いて”ですからね。いつだったかそのことで意見が分かれ、千円を賭けたことがありました。当然のことながら私が勝ちました。レコードを引っぱり出すとやっぱり“むせび泣いて”でした。私の記憶力のよさを知っているくせに、あなたはいつも自信満々で賭けに臨むのは不思議です。では一緒に歌いましょう。


    思い出のバラ

  五月 この僕が帰る まばゆい五月

  紅いバラは 思い出のバラは

  君の庭に咲くだろうか

  水を花びらにあげて 涙の水を

  紅いバラに 思い出のバラに

  君の白い頬よせて


 * 忘れないで 忘れないで

  時は流れ過ぎても

  むせび泣いて むせび泣いて

  別れる君と僕のために *       * refrain


 私たちは別れていません。少し距離はあいたけれど、私たちは別れていません。片方が死ぬまで離れませんでした。これって最後まで、最期まで添い遂げたってことでしょ。途中で投げ出さず、私があなたを送ってあげることができて良かったと思っています。
 ナスもキュウリもトマトも植えました。ちゃんと育って、いっぱい実が成るといいな。

2005年5月16日
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