− 思うことなど −

 「あぁ、しあわせ」

 夫が急逝し、「しあわせ」について考えることが多い。それは今、私が「ふしあわせ」だからだろうか。「あなたは今、幸せですか」と訊かれ、即座に「はい」と答える人は、十人中どのくらい居るのだろうか。
 世にある悲しみや不幸のうち、近しい者の死がその最たるものであろう。したがって今の私は最大級の悲しみと不幸を味わっていることになる。四ヶ月が過ぎようとしているが、そこからまだ抜け出ることができない。さりとて早く気持ちを切り換え、無理に明るくなろうとも思わない。ケガや病気の快復には自然治癒力によるところが大きいが、心の傷も同じである。あとで副作用が出るような強い薬で痛みを抑えて一時的に楽になっても、別の苦痛がやってくるかもしれない。人間が本来持っている「あきらめ」という自然治癒力が、少しずつ傷ついた心を修復させ、快復させてくれることに委ねたい。むろん、人の死を悼む気持ちに完治は望めないことは云うまでもない。
 幸福(happiness)は抽象名詞である。誰でもが知っていて口にする言葉だが、その概念は曖昧で捉えがたく輪郭がはっきりしない。また、人によっても定義を異にする。では「幸福」や「しあわせ」は、辞典にはどのように説明されているのだろうか。

〔広辞苑〕(岩波書店)
幸福…心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。
しあわせ(仕合わせ)…@めぐりあわせ。機会。天運。Aなりゆき。始末。B(「幸せ」とも書いて)幸福。好運。さいわい。運が向くこと。

 「しあわせ」は「仕合わせ」とも書くように、「であい」であり「幸福」の意味を含むが、より広い意味を担う。

〔大日本語辞典〕(小学館)
幸福…恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できて楽しいこと。めぐりあわせのよいこと。また、そのさま。さいわい。しあわせ。
しあわせ〔しあわす(為合)の連用形の名詞化〕…@めぐりあわせ。運命。なりゆき。機会。よい場合にも悪い場合にも用いる。A幸運であること。また、そのさま。幸福。B物事のやり方。または、いきさつ。事の次第。始末。C人が死ぬこと。不幸。葬儀。

 @にあるように、よい場合も悪い場合にも「めぐりあわせ」という広い意味をもち、Aでは幸福と同義でもある。ほとんど使われていないというBやCの意味には少しばかり驚く。

 これらを読んでも実際のところ何が「しあわせ」なのか、どういう状態が「しあわせである」のか具体的に説明しづらい。
 私は今まで「しあわせ」について考えもせず無頓着であった。ところが、このたび突然の不幸に出会い、はじめて「しあわせ」について考え、それを失ったことの悲しみに耐えている。「ふしあわせ」に直面して、はじめて「しあわせ」が見え、それを失った痛みを感じているのだ。つまり、「しあわせ」は「ふしあわせ」と背中あわせであり、辞典にもあるように、人生とはその二つの「めぐりあわせ」(自然にまわってくる運命)で構成されるものなのだ。

 この二年間、私と彼は幸福ではなかった。正確に云えば彼がもつ裏側に気づかず、信じて頼りきって家庭生活を営んできたこの十年間は、不幸であったと認めなければならない。したがって思い出される「幸福のとき」は十年以上の年月を遡り、とりわけ子どもたちが小さかった頃のものが多い。隠しごとが何もなかった頃の彼は、こぼれる笑顔を古い写真のなかで見せている。若くて生活水準は高くなかったが、振り返ってみればあの頃が一番しあわせだったのだと思う。
 夏の浜辺で子どもたちと遊んだこと、キャンプへ行ったこと、冬にはスキー、雪あそび。ひなまつり、誕生日、子どもの日、運動会、クリスマス、お正月…。これら特別な日ではない思い出も多い。蝉とりをしたこと、自転車の練習をしたこと、ゲームやトランプをしたことなど、そこにはかならず彼の姿がある。なんでもない日のちょっとしたことまでが「しあわせのシーン」として巡り、過ぎ去った年月のなかで燦然と輝いている。
 彼が居なくなり、ひとりであることを痛感し、つらく、苦しく、やるせなくなってしまうのはこんな時である。スーパーで食材を選ぶとき。ああ、彼は居ないんだと気がついて泣きたくなる。どこからともなくサンマを焼く匂いが漂い、楽しい団らんの声が聞こえてくる。ああ、私は一人なんだと泣きたくなる。食べることが大好きな彼のために、年じゅう一日たりとも夕食づくりに手を抜かなかった毎日の習慣が、私をとてもつらくさせる。
 いま私は、ありふれた日常の何気ない事柄のひとつひとつが「しあわせ」だったことを痛感している。彼と私にとって苦しいものであったここ二年間ですら、彼のために食事をつくることは歓びであったし、彼は庭に四季おりおりの花を咲かせ、自分の育てた野菜を私に食べさせることは幸せであったと思う。言葉は交さなくても、作業着姿で庭の手入れをする彼を、皿を洗いながら見ていることは幸せであった。居るべき人が居る。あたりまえの日常が運ばれる。それが「しあわせ」なのである。

 しあわせには形がなく、色も匂いも感触もない。それは常に断片的で瞬間的なものであり、残念なことに継続しない。だからといって悲観的なことを云おうとしているのではない。ただ、「しあわせ」と「ふしあわせ」が背中あわせであるように、生と死も背中あわせであることを心しておかなければならない。生きているかぎり人はかならず死ぬのだ。ふだんの生活でそんなことを考えもしないことは、目に見えない神の慈愛であろうか、それとも鞭であろうか。あたりまえの日常が崩れて「ふしあわせ」に打ちのめされ、いま私は「しあわせ」を惜しんでいる。この試練を逃げずに受け留めるより仕方がない。
 Hiroshiはよく、「あぁ、しあわせ」と云った。それは家で鍋をした時や品数の多いご馳走を、たらふく食べたあとに発せられる彼の口癖であった。少量のアルコールで頬を染め、ニコニコして丸く出た腹をポンポン叩いて云うのだった。彼は食べることが無類に好きな男であった。
 できるものなら好きなものをたくさん作り、もう一度だけ食べさせてやりたい。云わせてやりたい。そして聞かせてほしい。「あぁ、しあわせ」という声を。

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