− 思うことなど −

 最期の花火

 夫が急逝して今日でちょうど二ヶ月になる。
 亡くなる二日前には一緒に花火を見て楽しんだ。それは生涯忘れられない思い出となった。
 毎年、八月一日に富田林(とんだばやし)の丘陵でPL教団主催の花火大会が盛大におこなわれる。打ち上げられる花火の数は十万発と云われ世界一の規模だという。遠景ではあるが、私の家からはそれらの花火が眺められる。
 今年は日曜日にあたっていた。さぞかし人出も多いことだろうと思いながら庭から見ることを楽しみに夕食の準備をしていると、庭仕事を終えた夫が云った。
「あいつ、来ないかな」
あいつとは嫁いだ長女のことだった。見に来てほしいという彼の気持が感じられた。
 娘に連絡してみると、来るという。それを伝えると「そうか」と彼は口許をほころばせ、後片付けをするために庭へ出た。その日も彼はサルスベリの木を消毒し、ナスの枝打ちをし、芝刈り機で芝を整えた。一日の大部分を庭仕事に費し、満足げな様子だった。
 娘婿は仕事だというので娘は一人でやってきた。持参の材料でチヂミを焼き、私は餃子を作って焼いた。素麺をゆがき、サラダも作った。午後七時からの花火に間にあうようにと、いつもより早めの夕食を三人でとった。
「始まってるぞ」
そわそわと落ち着かない様子の彼は、そそくさと食事を済ませて庭へ出ると、そう云いながら戻ってきた。それから階段を上り降りしては梯子や椅子を運びはじめた。庭で見るのではなく、我が家でいちばん高い所で彼は見るつもりでいたのだ。
 陸屋根に上がると涼しい風が吹いていた。山の端(は)に大きな満月が出ていて空が明るかった。ドーン、ドーンと遠くから音が響き、鮮やかな花火が次から次へと打上げられた。娘と私は彼が並べておいてくれた丸椅子に座り、女学生のようにはしゃいで見ていた。私たちのななめ後ろに彼は立ち、時おり「ほぉ」とか「きれいやなあ」とため息まじりに云いながら眺めていた。
 シャッターを切る音がときどき聞こえた。彼は私のホームページを飾る写真を常に意識し、生活の隅々をカメラに収めていた。私の急な要求にも応えられるようにと思ったのか、この日もデジカメで花火を写した。お陰でその夜の「右近通信」に載せることができた。
 花火が途絶えたときにはたわいない話を娘とし、次の花火が上がるのを待った。塗り替えたばかりの白壁の我が家。私たちがいる陸屋根には山が迫り、月が私たち親子だけを照らしていた。このまま時間が止まればいい。封じ込めておきたいような「家庭の幸せ」を感じながら、私は風に吹かれていた。インドに滞在中の次女をふと想い、来年は四人でかならず見たいものだと考えもした。
 夜空を焦がして華々しく繰り広げられた花火の饗宴は、約一時間ほどで終わる。毎年フィナーレを飾るのは、ひときわ豪華で美しい花火の連発だった。今年は真っ紅な大輪の花火が突如として開花し、そのあといくつもの紅い花火が小気味良い音とともに連続で打ち上げられた。家々からは歓声があがった。私たちの真上の夜空までが紅く染まった。ふと彼を見ると、紅い光が頬に反射し、横顔が輝いている。かすかな笑みを浮かべて幸せそうな表情をしていた。この男が愛しいと思った。
 二日後に彼は逝った。あの幸せの絶頂で、誰もそれを知りえなかった。旅立つ支度をはじめていたなど彼自身も知りえないことだった。楽しいひとときを過したあと娘は帰り、彼は梯子や椅子を片付けた。そのあと珍しく私の方をまっすぐに見て、噛みしめるように云った。
「ここは、ほんまにええとこやなぁ」
「そうやね」と私も答えた。
 私たちの関係は、修復されつつあるところだった。
 今にして思えば、あの最後の花火は彼の命の燃焼だったのかもしれない。臨終の場には居てやれなかったが、私と娘は彼の最期を看取ったのだ。あれは彼の人生のフィナーレだった。あの夜、彼は私たちに別れを告げ、夜空に旅立ち美しく燃え尽きた。最愛の家族に見守られながら。
 来年も、再来年も、私は陸屋根に上がって花火を見る。風に吹かれ、月に照らされ、山の空気を吸い、歓声をあげながら彼と娘たちと一緒に見る。きっと彼も同じことを思っているにちがいない。
(10月 記)
 
平成道行考「随想」より

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